日本マーケットシェア事典2013年版巻頭言より

日本型マーケティングの強みを強化し、かつ、その適用範囲を拡大せよ

株式会社矢野経済研究所
代表取締役社長 水越 孝

今こそ産業の高度化に向けてイノベーションを

安倍政権の積極的な財政金融政策は、長期に及んだ我が国の閉塞状況を打破するものと多方面から歓迎されている。

実際、政権交代を契機に急速に進展した円安、株高が政治への期待を更に高める。経営者や消費者心理の変化は、それだけでも大きな経済的効用であったと言うべきであろう。

しかしながら、そもそも我が国の「過度な円高」は、欧州の金融危機や新興国リスクを敬遠したグローバル資金の流入が背景にある。言わば行き場を失った過剰流動性に底上げされた「相対的な円高」であって、そこに「低金利」と「デフレ」が危うく均衡していたのが昨年までの状況である。したがって、急激な円安はこうした微妙なバランスを崩しかねない、との懸念を無視することは出来ない。

また、日本経済は「70兆6720億円相当の物品を輸入し、63兆7446億円相当の品目を輸出する」という貿易構造のうえに成り立っていることも忘れてはならない(平成24年貿易統計、財務省より)。円安は輸入総額を押し上げる一方、品目と数量が同じであれば輸出総額は当然逆へ向く。つまり、量を確保出来なければ貿易赤字は拡大する。

台湾中央銀行の彭淮南総裁は立法院(国会)における答弁で「日本からの輸入品は少なくとも15%の値下げ余地がある」、「円安が顕在化し、数ヶ月が経過した。在庫も解消されたはずだ。円安を価格に反映するにはちょうど良い時期である」と発言した(3月26日付け、日経本紙より)。対日本製品に対するこうした値下げ圧力が、相手国や業種を問わず強まってくることは想像に難くない。つまり、多くの企業がこの3月期と同様の「円安差益」を享受出来るわけではないということである。もちろん、差益は縮小しても、「値下げ」はコスト競争において優位に立てる。韓国企業や新興国と熾烈な価格競争を展開する企業にとって、競争条件は大いに改善するだろう。しかしながら、我々は再びコスト競争の世界で戦うのか。そして、値下げを補うだけの販売数の拡大は可能なのか。高度経済成長とバブル崩壊を経験した日本が、90年代以降目指してきたのは産業の高度化であり、研究開発型ものづくり産業の育成であったはずだ。あるいはコンテンツ産業の育成であり、知的財産立国ではなかったのか。

日本の国際競争力が弱体化した主因は「過度な円高」だけではあるまい。個々の企業の需要創出力の劣化と技術力そのものの相対的な低下こそが問題であり、その背景には日本という閉じた市場における巨大な成功体験、複雑に入り組んだ既得権、そして、硬直化した産業政策、を指摘出来る。ルネサス救済における産業革新機構のスタンスを「日の丸連合」などと賞賛する向きもあったが、“イノベーション”をその名に冠する同機構の活動が、「旧来型オールジャパン」に囚われているとすれば、それは喜劇である。

個別市場への対応力が外需を取り込む鍵である

日産自動車のカルロス・ゴーン社長は「円安が進んでも日本から海外へ移管した生産を戻すことはない」ことを明言するとともに、「生産体制の国際分散の進展を考慮するとTPPがもたらす影響は小さい」と述べた。TPP交渉への参加表明は、交渉参加の可否すら決めることが出来なかった日本にとっては前進である。しかし、ゴーン社長の言葉に象徴されるように世界を主戦場とする企業は既にTPPの外からマーケットをみている。オール・ルノー・ニッサンにとってTPP交渉の行方は事業条件における流動的な変数の1つでしかないということだ。

そのルノー・ニッサンもお膝元のフランスで苦戦を強いられている。フランス自動車市場全体の低迷が背景にあるとは言え、この2月の乗用車販売台数はトヨタや現代自動車が前年を大幅に上回る一方で、ルノーは▲19.5%、日産は▲10%の前年割れとなった。つまり、競争条件のフラット化は需要構造の画一化を意味しないということだ。要はマーケットに適合した魅力ある商品を展開出来るかどうかということである。

防塵防湿機能を強化した懐中電灯一体型の携帯電話(ノキア)と“赤と青”を際立たせたテレビ(ソニー)のインドにおける成功事例は、現地マーケットの需要特性を的確に捉えることの重要性を再確認させてくれる。また、購入単位を小ロット化することで新興国市場を開拓したユニリーバ、手洗いや歯磨きを習慣化させるためのプログラムからマーケティングを展開するP&Gなど、コモディティ市場においてもきめ細かく創造的な市場開発力が求められる。すなわち、新興市場にあっても個々の企業の市場ニーズへの適合力と実需喚起力が問われるということであり、それがあって始めて「成長」を取り込むことが出来ると言える。TPPへの参加、すなわち、アジアの成長を取り込むこと、とはならないのだ。

ニッチ市場への対応力を強化し、グローバル市場を分断する

一方、日本市場はどうか。現在の日本市場は、高度に洗練されたサービスと多様多層なニッチ市場がパズルのように重なり合う、世界に類を見ないマーケットである。そして、この独特な需要特性こそが無形の非関税障壁になっている。とすればこれを更に強化、成長させ、同時にその適用範囲を国外へ拡大させてゆくことが戦略化されるべきであろう。

したがって、内需の成長戦略と外需を獲得するためのグローバル戦略は、一体的に検討されるべきである。小さなパズルが複雑に組み合わされた高度な内需を成長させ続けることが国内産業にとって最高度のディフェンスであり、パズルの当てはめ先を外需の中に見出し、あるいは、新たに創造することがグローバル戦略における新たな成功モデルとなり得るのではないか。そして、唯一そうすることが単一化と低価格化に収斂してゆくグローバリズムとは一線を画す、多様でダイナミックな「ブルーオーシャン」を拓くための第1歩となるはずだ。

(2013年3月)